発表準備

 前回のエントリーに収録した、今度の日仏社会学会の発表の予告編で、

 私たちは、意識的にせよ無意識的にせよ、痩せ細ったライシテ観を構築しておいたうえで、ライシテは偏狭だと批判しているのかもしれないのである。

と私は書いたのだが、これはある意味で、次のような文章の変奏じゃないかということに気がついた。

 私たちは、意識的にせよ無意識的にせよ、痩せ細った宗教観を構築しておいたうえで、宗教は怪しい、危ない、怖いと批判しているかもしれないのである。

 これは、少なからぬ宗教学者が口にしそうだし、まあ私も口にすることがあるかもしれない。宗教学者が相手ではないときは、「本当に怪しい、危ない、怖い宗教もあるから、それは注意しないといけませんが」と付け加えるのを、忘れていないつもりではあるのだけれど。

 こんなことを漠然と考えていたら、オウム事件の後の『批評空間』のことを思い出して、めくり返してみると、田川建三がこんなことを言っていて、ああそうだなあと思う。

 今我々に必要なことは、宗教を――宗教に限らずすべての細分化された領域を――しかし特に宗教を、もう一度解体して、人間の全体をとりもどすことである。しかしそれは、近代以前にもどる仕方で行なわれてはならないので――しばしば「近代を超える」主義者が実際には近代以前に架空的に舞い戻る夢を見るような仕方では困るので――宗教が人間の生活の全体を覆う仕方で人間の全体の有機的つながりを作るというのではなく、もはや宗教を必要としない仕方で人間の全体を全体として取りもどすことが必要なのである。(批評空間第II期8号、1996年)

 ということは、宗教について語ることと、ライシテについて語ることは、文章の構造としては同型であっても、一方では、きちんと差異を確保することが重要であり、他方では、差異がなくなるような逆説に鋭敏な感覚を持って、チェックしたり、終わることのない書き換えに参与するようにしたりすることが、重要なのだと思う。

 そういうことをあれこれ考えながら、発表準備を進めているのだが、結局のところ、今から2年前にUTCPで行なわれたシンポジウム「21世紀世界ライシテ宣言とアジア諸地域の世俗化」でボベロや登壇者の先生方が言われているもろもろのことを、私なりに受け止め、パラフレーズしているにすぎないように思えてきた。これは、私が鈍いせいでもあるし、このシンポジウムが豊かな源泉をなしているということでもある。

 いずれにせよ、今回の作業は、愚鈍な私にとってはいろいろな発見にも満ちている。観客として概要を語ることと、まがりなりにも素材と格闘することは、やはり違うわけで、仕事をするというのはこういうことかなあと思ってみたりもする。ライシテを脱フランス化することの意義を、日本語で語るにはこうすればよいのではないかということは、ずいぶん見えてきたつもりではある。