書評:宗教のあとの宗教性(2)

(承前)

リュック・フェリーは、自分とゴーシェの位置取りについてどう見ているのだろうか。彼は、宗教や宗教性をとらえる立場には大きく3通りあるという。――第一に、フォイエルバッハマルクスニーチェフロイトの線で、宗教は半ば想像的・半ば理性的な人間の知的活動の虚構的な産物であると見なす立場だが、自分もゴーシェもこれには該当しない。第二に、宗教の宗教たるゆえんを「他律」(hétéronomie)に求める立場で、ゴーシェはこれに該当する。ここでは、宗教・宗教性は社会的構成力や法的強制力をもったものとして「政治」の観点からとらえられ、社会におけるその位置は「歴史」に応じて構造的に変化しうるとされる。ゴーシェはこの立場から、極めて整合的で一貫した論を組み立てている。しかし、宗教・宗教的なものを「絶対」とのかかわりにおいてとらえる、「哲学的」「形而上学的」な第三の立場があり、自分が採用しているこの観点からはゴーシェの論に異議も唱えうる。なぜなら、この観点からは「他律」的でなく「自律」(autonomie)的な宗教性について語りうるからであり、超越性(transcendance)の問題が人間の経験の地平(horizon)に開けてくるからである。
マルセル・ゴーシェは、確かに自分は宗教を社会の構成力としてとらえる立場から考えているが、フェリーの推論は正確ではないと言う。フェリーは、人間の精神に形而上学へと向かうものが先天的に備わっているか、という格好で問いを立てたが、私にとっての問いは、宗教が歴史上起こったのはどうしてなのかだ、と述べる。ゴーシェは、人間が自然の力を神と認識していったという議論に抗して、宗教をひとつの「制度」としての事実だととらえることから出発する。そこから、他律性の位置と、それが政治・社会に対してどのような関係に置かれてきたかを、歴史的に検証していく。――確かに、とゴーシェは認める、この視点に立ったときの先決問題は、諸宗教の実質的内容とその歴史のなかでの変容を明らかにすることだったので、人間の何に基づいてこのような制度が築かれたのかという点については、まだ十全に迫ることができてはいない。私は、人間には宗教的本性があると前提してしまう視点には与しないが、「人類学的な構造」(structure anthropologique)あるいは「人類学的な基体」(substrat anthropologique)のようなものがあって、そこから人間は見えないものへの仮託を通して、自分の経験に意味や位置を与えていると考えている。この迂回路が、他律性という形を取ったのが歴史のなかでの宗教であるが、人間が自律性を獲得するにつれて「宗教からの脱出」が起こっている。だからといって「宗教的なもの」がなくなるわけではない。ただ、かつて宗教あるいは宗教的な形を取っていたものがそうではなくなってゆくこと、人間が完全に宗教的語彙や宗教的解釈枠組みから抜け出すこと、人間が自律性のなかで「此岸の絶対」(absolu terrestre)を手に入れることも可能である。――つまるところ、人間の本性が宗教的だというのではなくて、歴史上の事実としてあまりに長い間あまりに広範囲にわたって宗教に律せられ宗教性の存在であった人間の性向について、より根元的な把握が必要だというのである。人間の外延は宗教の外延を逃れうると言ってもよいだろう。

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 図式的に整理しよう。フェリーは超越性が人間の意識の「上流」(en amont)から「下流」(en aval)へと移行しているという認識のなかで宗教性の問題を提示しているとすると、ゴーシェは人類学的基体が「他律」の回路を抜け出し「自律」の方向に向かっているという流れのなかで宗教性の問題を考察している。
フェリーにとってのキーパーソンの一人はカントである。それ以前は、人間の意識の「上流」で、つまり人間の意識に先立ち越える形で、超越性の問題が考えられていたとすると、カントは初めて、神や実体的原理を前提とせず、また人間に対して外在的な何物にもよらない、人間の原理のみに即した道徳を打ち立てた。これにより、宗教や宗教性の問題は、人間に即した道徳的行為の地平に、生きられた個人の経験の「下流」に、浮かび上がりうるものとして、再導入されている。このようにカントの議論を「垂直的な超越」から「水平的な超越」への転回ととらえるフェリーにとって、宗教のあとの宗教性は「内在における超越」(transcendance dans l’immanence) の問題である。
これは、フェリーにおいては「聖」(sacré)という言葉とも等置できるようなものだが、ゴーシェは「聖」概念はもっと厳密なものだと言って批判する。ゴーシェは言う――聖とは、見えるものと見えないもの、此岸と彼岸、自然と超自然が具体的に交わる経験を指すのであって、歴史的にはその媒介を司る権力として現れた。だからこれは政治の問題と切り離せない。「他律」から「自律」へとシフトしていくなかで、私たちがとりわけ宗教や宗教的なもののどの側面から抜け出しているかといえば、まさに「聖」の側面なのだ。それゆえ「世界の脱魔術化」は「脱聖化」(désacralisation)でもあるのだ。それゆえ、自律的な人間の経験を「聖」という言葉で表すのは誤りで、「この世の絶対」(absolu terrestre) とでもいった言葉で表して記述していくほかはない。

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両者は、「宗教の時代」は終わったが「宗教性の問題」もそれと一緒に終わるわけではないという点では一致を見せていた。ただ、その解釈と方向性については、180度異なっているように見えた。この2人の違いは、単に表面的なものではない。なぜなら同じ見方をした上でのウイかノンの問題ではなく、双方の体系的なものの見方のなかで「宗教的なもの」がどうとらえられているかの違いが現れたものだからである。
2人の応酬はときに激しい。例えばゴーシェはフェリーをこう批判する。あなたは「神」(Dieu)について語ることなしに「神的なもの」(divin)を持ち出してきているが、これでは何のことかわからない。人間についての深い分析から出てきたものではなくて、表面に貼り付けられたものにすぎない。フェリーも負けてはいない。あなたは宗教や宗教的なものに向かう性向のある人間をより根本からとらえたがっておられるようだが、徹底的に「記述」の領域に留まってそれをするなど、できない相談だ。あなたは「この世の絶対」を宗教的なものの外で考えているようだが、これはすでに宗教的なものなのだ。
読者は、最初からどちらかの立場に与して、他方の発言を偏見で見るということがなければ、どちらも極めて体系的で筋の通ったことを言っていることを見出すだろう。最もよい読み方は、この2人の議論に触発される格好で、自分の見方を明確にしていくことだと思うが、これは一朝一夕にはできず、かなり困難なことだ。ただ、その足がかりとして、2人がともに指摘していたこと、すなわち、宗教から宗教性への移行に際しての連続性と非連続性により具体的にこだわること、からはじめることはできるだろう。(き)