辻邦生の命日に

 この前のエントリーで、10月に行われるトゥールーズでの発表に合わせ、辻邦生の文学における生と死について原稿を準備していることに触れておいた。当初はまとまりがつくだろうかと思っていたが、7月末の原稿締切に合わせて、とりあえず体裁は整えた格好だ。彼の豊かな作品世界に比べると、いかにも物足りない代物ではあるのだが(というか、比べること自体お門違いであることは百も承知している)。
 日本語版(原稿用紙30枚程度)とフランス語版(5000字程度)の両方を提出することになっていたが、日本語の原稿をフランス語に訳すよりも、フランス語版から書きはじめそれを日本語にする方がはるかにスムーズにいくと予想された。実際その通りだったと思う。フランス語版にはまるまる2週間かかったのに対して、いざ日本語にするとなったら2日でできた。仮にこれを逆にしていたら、日本語版に1週間、フランス語版に3週間くらいかかったのではないかと思う。
 全体的な構想を形にする過程で、また全体像の見直しを迫られることもあるのは事実だが、思い描いていることが言葉になればよいだけの次元の話なら、もう少し早く書けるとよいのだが。
 それはさておくとして、今日は7月29日で、辻邦生の命日に当たっている。故人を偲ぶということで、今回の原稿にうまく盛り込めなかったこと、上手に展開できなかったことなどを雑感のようにして書き連ねておきたい。
 『廻廊にて』でも『夏の砦』でも『西行家伝』でも、主人公たるマーシャ、支倉冬子、西行は、物語の冒頭早々にすでにこの世の人ではないことが読者に示される。語り手が挑んでいるのは、死者の生を再構成するという困難な試みである。
 この点、辻邦生はとりわけリルケの『マルテの手記』を非常に深く受け止め、その文学的遺産を継承していると思われる。よく知られているように、リルケの最初の構想では、語り手がある少女に出会い、マルテという若くして死んだ才能ある詩人の遺した原稿を彼女に見せるという作品構成を取ろうとしていた。けれどもリルケはそれが非常に困難であることに直面し、マルテの手記だけで作品を構成することを余儀なくされた。死者が生きていたときの内面世界を第三者が語ろうとすることは、たとえ小説というフィクションにおいてであっても、おそろしく困難なことなのだろう。
 辻邦生はこの困難さを引き受けた。そして「マーシャの日記」とか「冬子の日記」としても十分作品として成立しうる密度の濃い世界を、語り手を介在させながら提示するという離れ業をやってのけた。西行の弟子という設定の藤原秋実も物語の冒頭でこうつぶやいている。「あの人のことを本当に書けるだろうか。あの人――私が長いこと師と呼んできたあの円位上人、西行のことを」。
 そうした語り手自身が告白しているように、死者の内面世界を忠実に再構成することは原理的に不可能である。けれどもその一方で、死者を弔うためには、死者の生に意味をもたせるためには、死者を生かすためには、そのような企てを行うことが自分の務めだとこの世に残された者たちが感じることも事実である。
 「自分にも西行のことを語ることはできない」と感じて、秋実の訪問を受けることを躊躇していた堀川局がそれに応じることになったのも、自分なりに見た西行について証言することが必要で意義あることだと認めたからではなかったか。

わたくしは義清どの〔出家前の西行〕の歌を見るだけで、また父とのやり取りを聞くだけで、義清どのが何を考えているか、何を迷っておられるのか、分りました。でも、それはあくまでわたしが勝手に推し測った心のうちですから、あなたにそれをそのままお話することが、まず第一に、躊躇われたのでございます。〔けれども〕わたくしはあなたのお手紙を何度も読み返してみて、もしこうした日々わたくしが見た外見だけなら、お話できるのではないか、と考えるようになりました。わたくしの思い出はほんの表面だけの事柄で、奥の奥までお話できるわけではございませんが、それはそれで、義清どのの一面ではあるのだ、と思うようになりました。わたくしがこちらにお出でいただく決心をいたしましたのは、こんな物思いを経てのことでございます。

 死者の豊かな内面世界の再構成は、究極的には不可能でありながら、そこには一種の共鳴板を探る試みのようなものがあって、残された者にとっては、死者の本質的な美徳をつかむことは、その美徳を共有・分有していくことにつながり、死者にとっては、そのように語られることによって、その美徳が明らかにされることにつながる。
海峡の霧
 『海峡の霧』の第一部を占める「人物」と題された断章群は、辻邦生が生前親しく交流した師や友人たちの回想を集めたものだが、これを読むと、辻邦生が師や友人たちの死を悼むとき、彼はその人物の最も本質的な美徳で相手の全体を牽引しているのだなという思いに打たれる。故意によいところだけを眺めるのではなく、最もよい見方で全体像がとらえられている。そして、そのようにとらえられるということは、辻邦生自身の精神がそのように感化されているということにほかならない。辻邦生の精神構造と、師や友人たちの精神構造はどこまでも違うが、辻邦生が彼らに発見したものは、辻邦生自身の精神の領分である。ベルクソン=ドゥルーズ的な言い回しで言えば、持続の一致が差異を告げるということになるだろうか。

死が単なる事故におとしめられている現代、阿部昭は生への限りない愛によって、地上を去ることが悲劇であることを示した。彼の不意の死のなかにあるギリシアの墓碑浮彫りのような悲しみは、彼の描いた最後の作品と言えないだろうか。

われわれは……快楽はひょっとしたら悪かもしれないし、美は必ずしも人間を救ってくれないと思うことがあるが、篠田一士はおそらく彼がシューベルトに惑溺し、プルーストに魅惑されて以来、そんな白けた懐疑に陥ったことなど一度もなかったに違いない。それは彼が二十世紀的な精神状況に不感症であったり、それを認識しなかったのではなく、それを十二分に見据えながら、トーマス・マンの言う「にもかかわらず」によって、その状況を超出し得る美的法悦の実感をつねに持ち得たからである。

彼〔豊崎光一〕は現実の論理を知っていた。それを知っていながら、生の素晴らしさに惑溺した。しかし文学青年的に逃避的に美に沈湎したのではなかった。生の素晴らしさも、現実の論理を突きぬけ、向う側に出た者にのみ与えられることを知っていた。豊崎の冷静さと情熱の奇妙な混淆はそこから生れていた。

井上靖の偉大さはこの生得のストーリー・テラーの道を拒み、「詩」の道をとった点にある。それは、父のために理科を選んで苦しい彷徨をつづけたと同じく、気位の高い母の資質に忠実に従って、「詩」と「ストーリー」の結合に向かった井上さんの律儀さ、優しさ、頑固な情熱の結果と見ていい。

埴谷さんが「発見」した文学者は多い。そしてつねにそのいいところを強調し、勇気を出して書き続けるように激励した。その意味では、埴谷雄高は偉大な教師であった。……埴谷さんとの話の中にしばしば「観念の自己増殖」という言葉が出た。小説に描かれる人物も出来事も、それは作者の観念から生み出される塊のようなもので、それが自己増殖して作品の具体的映像になる。小説は決して現実を模写することではない――それが埴谷さんの信念で、「観念の自己増殖」はそれを定式化した言葉だった。……私は埴谷さんは早くから「死」の予行演習をしていた人に思えてならない。今埴谷さんの「死」が現実となってみて、埴谷さんが「死」の中におられず、すでに「死」の向う側に出てしまったように思えるのはそのためではないかと思う。

宇野〔千代〕さんのすばらしさは、その恋愛のたびに、尾崎士郎東郷青児や北原武夫から、それぞれの最もすぐれた部分を同化して、一まわりも二まわりも大きな文学的人格に成長してゆく、ということだった。こういうことが可能なのは、その愛にエゴというものがない場合だけである。

 辻邦生がこうした人物について語るとき、そうした人物の美徳や本質を正確にとらえながら、そこにはいかにも辻邦生らしさが現れ出てくるように思われる。(き)