タラル・アサド『世俗の形成』

「宗教」を理解しようとする学問は、その対となるものの理解にも努めなければならないはずである。−−タラル・アサド

Formations of the Secular: Christianity, Islam, Modernity (Cultural Memory in the Present)

Formations of the Secular: Christianity, Islam, Modernity (Cultural Memory in the Present)

 もう2年前になると思うが、日本の指導教官との面談の際にこの本の話が出て、これが重要な著作であること――とりわけ近代を宗教性の観点から読み直すということをしたがっている私のような研究スタンスの者にとって――は認識していた。それで英語の本を取り寄せてはいたのだったが、「英語かぁ」とやや敬遠気味に、ずっと積読状態になっていた。今年になって、日本語訳が出たので、9月の一時帰国の際に手に入れ、敷居がずいぶん低くなった。先日、宗教学の先輩のブログを訪れたら、共通の指導教官のこととアサドのことが出ていたので、それがきっかけとなって、ここ数日、この『世俗の形成』を読んでいる。
世俗の形成――キリスト教、イスラム、近代

世俗の形成――キリスト教、イスラム、近代

 なんとなくアサドはこういうことを言っているのだろうなと漠然と抱いていたイメージはあって、それは外れていなかったと思うのだが、それがはっきりしてきたと感じられる経験には、やはり読む前には予期し得なかった貴重な発見がある。

 大局的なところでは、次の2点が私には非常に興味深い。

1、「宗教」を解読するように「世俗」を解読しようとしている点。

 しかもアサドは、「世俗的なもの」における「宗教的なもの」をアナロジー的に指摘する観点では不十分だと見ている(彼の批判するビック・ネームは、クリフォード・ギアツやカール・シュミットなどである)。こうした態度には、宗教的なものとは何かについてのコンセンサスが予め措定されており、説明を要するはずのものが説明の手段とされてしまっているとアサドは指摘する。必要なのは、「類似」や「連続性」に注目するだけでなく、「世俗」がもたらした諸価値とそれに結びついた概念や実践がどのような新しい分節化を行っているか、規律の再編のあり方がそれまでの「宗教」によるそれとどう異なっているのか、「差異」においても示すことである。
 アサドによれば、宗教の記述において重要な課題は、「信者たちが(自らの伝統を辿るために)それらの要素を例示し、反復し、変更し、適応させ、論じ、多様化する仕方を発見すること」である。そして即座にこう付け加える。「世俗主義についても同じである」*1

 世俗的なるものとは、それに先行するとされる宗教的なるものと連続しているわけでもなければ、単純に断ちきれているわけでもない・・・・・・。世俗とは近代の生活におけるある種の行動、知識、完成を寄せ集めた一個の概念である。*2

 アサドはこうした世俗の解読を「世俗主義の人類学」と呼ぶわけだが、ここには「ライシテの宗教学的研究」という私の立場(ないし私が微力ながら試みようとしていること)にとって非常に決定的なことが述べられていると思う。
 またこれは、マルセル・ゴーシェの「宗教からの脱出」の議論に重なってくると思われる。なぜなら、ゴーシェにとってこの鍵概念が意味するところは、人びとが宗教を信じなくなることではなく、まさにそれまで宗教が担っていたものを人間の世界において練り直し、再構成することにかかわっているのだから*3
 ちなみにゴーシェは、この過程で宗教の位置が変化することにも注意を促している。かつて宗教は、政治の形態や集合性の秩序を規定していたが、「宗教からの脱出」の過程のなかで、もはやそれらを規定しえなくなり、逆にそれらの内側に取り込まれた、と論じている*4
 アサドも、この点は見逃していない――いくらか違った言い方ではあるが。すなわち、近代化の過程で諸概念の配置が組み換わるなかで、「宗教」にもそれまでと違った意味合いが与えられ、それまでと違った位置におかれるようになった。つまるところ、「世俗」は自らを「宗教」に対置することにより、自らが編み出す地平において「宗教」という概念を新たに形成することにもなっている。そして自らに固有な道を歩もうとする。

 近代性の言説においては、「世俗」は、神学的言説が(虚偽意識の形態として)生成される地盤として立ち現れる。これはまた、「世俗」が自由への道を進みながら次第に自らを解放していく地盤でもある。この地盤において、人間は「歴史」の自覚的な作り手として現れる(暦上の時間が、人間のできごとを測る物差しとなり、またそれを方向づける)。人間はまた、自然と社会についての普遍的に有効な知識の不動の基盤としても現れる。*5

 世俗的諸価値に対してこのような分析のメスを入れるアサドの論述はスリリングで、「まったくその通り」と頷きながら読んでいることがしばしばあった。


2、世俗的ヨーロッパにおけるムスリムにとっての代理=表象の困難さ。

 この点もほぼ同意。「完全に」と言わないのは、「世俗主義の人類学」については自分の身に照らして全く同感なのに対して、こちらについては自分の経験からは何とも言えない部分があるからだ。それに、もうひとつ付け加えるなら、アサドはヨーロッパにおけるムスリムという全体的な話をしていて、少なくともこの著作では、国ごとの違いに注意を払っていない。例えば、確かにフランスでは、ターバンを巻いた空港職員には出会えないが、イギリスでは出会える(これはオリヴィエ・ロワがどこかで挙げていたエピソード)。代理=表象の諸様式は国ごとでも違うはずである。ただ、アサドの議論は非常に鋭く、自分が前から気になっていた「一種の非対称性」について大きなヒントを与えてもらえたように思う。
 アサドはこう言う。 

 ムスリムは、世俗的ヨーロッパの中に明らかに存在している。しかし、ある重要な意味において、不在のままである。ヨーロッパにおけるイスラムを理解するという問題は、主として(と私は考える)、ヨーロッパ人によって「ヨーロッパ」がどのように概念化されているかを理解するという問題である。ヨーロッパは(そしてヨーロッパを構成する国民国家のそれぞれは)、イデオロギー的に、イスラム系移民が十分に表象=代表されえないようなかたちに、構成されている。イスラム系移民は、ヨーロッパにおいて、包含されると同時に排除されている、と私は論じたい。そしてこのことは、世俗的な環境の中に暮らすムスリムの「絶対主義的信仰」に関わりがあるというよりも、ヨーロッパ的な「文化」「文明」「世俗国家」そして「多数集団」「少数集団」の概念に関係している。*6

 こうしてアサドは、受け入れながら受け入れていない文化コード、あるいはヨーロッパという物語の解読を促している。ただしこれは、物語のフィクション性を暴けば解決するような問題ではない。「物語」と「物語が権威づける実践」は現実的な力としてはたらいており、それを「非本質的なものと見なすわけにはいかない」のだ。

 フランス市民たることは、フランス革命において基礎づけられ、フランス共和国の法律と伝統的慣習のうちに体現され、その国民的物語のうちに語られている集団的パーソナリティーを、個人として身に反映させることである。このパーソナリティーは、永続的で不変のものだとは考えられないとしても、フランス市民たるべき必須の条件を表している。・・・・・・フランス市民――世俗的遺産を受け継ぐ者たち――は、脱本質化されえない。*7

 ヨーロッパのイスラムは「脱本質化」されるのに対し、世俗的ヨーロッパの側は「脱本質化」されない。これが「非対称的な関係」の正体だと思う。もちろん、ある場所における別の土地のものというのは、基本的に脱文脈化され、多かれ少なかれ「脱本質化」されるものだ。その意味では、イスラム世界におけるアメリカやヨーロッパのイメージも「脱本質化」されてはいるだろう。だが、もちろんここで見逃してはならないのは、ヨーロッパの近代に全世界が巻き込まれ、アメリカの現代に現代世界が巻き込まれていることだ。
 ムハンマドカリカチュア事件は、欧米世界(あるいは世界スタンダード)では「表現の自由」と「信教の自由」の問題として立てられる。イスラム世界、といっても様々だが、その見方では、おそらくこのような問いを溢れるものがあるのだろう。それが「表現の自由」対「信教の自由」のせめぎあいという表象様式の力に、否が応にも巻き込まれる。このような見方を拒むにしても、こうした見方の何ほどかを相手の方も分有せざるを得ないのである。
 ヨーロッパにおけるムスリムが、自己を自己として代理表象されることは可能だろうか。可能だとして、それはどのようにして、また、どのくらいの期間が必要だろうか。アサドは、マイケル・ウィントルを引いていて、それによるとヨーロッパをヨーロッパたらしめる物語として重要な歴史的要素や出来事は、ローマ帝国キリスト教啓蒙主義、産業化だという。なるほど面白い指摘だ。なぜなら、これらの経験が行われたとき、イスラムはヨーロッパの「内部」で認められておらず、むしろ「外部」としてヨーロッパのアイデンティティを強化する役割を負わされていたからだ。ヨーロッパにおけるイスラムの理解は、これからヨーロッパという物語がどのように反復されるかにかかっていると言えるだろう。こう考えると、問題は5年や10年で済むものではなく、半世紀、1世紀規模(さらにはそれ以上)のようにも思えてくる。

 他にも興味深い論点はいろいろあるのだが、最後にいくつか、うまいことピタリ言い当てていると思ったところを引用しておこう。アサドの舌鋒はなかなか鋭く、エピグラフなどにも使えそうなフレーズが散見される。(き)
 

 世論調査は、絶えず市民の薄弱な集合的見解を調査しながら、次回の選挙に向けて国民意識の動向について政府に情報を与え続け、政府が有権者から委託されたものとは独立に世論を予期したり誘導したりできるようにしている。

 言論の自由を享受するためには、言葉を話す物理的能力だけでなく、話を聞いてもらえる物理的能力もまた必要である。・・・・・・万人が等しくこのような遂行的発話を行えるわけではない。なぜなら、言論の自由の領域は、常に予め確立された制約のもとに形成されているからである。

 国際法の伝統の中に書きとめられたキリスト教史が…・・・世俗的言語のなかで再び引き合いに出されようとしている。

*1:訳書p.255

*2:訳書p.30

*3:Marcel Gauchet, La religion dans la démocratie, Gallimard(folio), 1998, p.18.

*4:Ibid., p.14

*5:訳書p.252.但し一部改訳。中村圭志氏の訳では「近代性の言説においては、「世俗」は、神学的言説が(虚偽意識の形態として)生成される地盤として立ち現れる。神学的言説は、自由への道を進みながら、次第に自らを解放していくとされる・・・・・・」とある。二文目が理解できず、原書を見ると、「In the discourse of modernity « the secular » presents itself as the ground from which thelogical discourse was generated (as a form of false consciousness) and from which it gradually emancipated itself in its march to freedom」とある。二番目のfrom whichの後のitはthelogical discourseではなく、the secularを指すのではないだろうか(もしitがtheolocical discourseだったら、from which it自体が不要であろう)。もちろんこれは揚げ足取りのつもりではない。中村氏の訳がなければ、しばらく私はタラドの原書には近づかなかったと思う。非常に訳者の恩恵を受けていると感謝している。タラドの別の主著『宗教の系譜』の訳よりも今回の方がずっと読みやすくなっている、とも思う。

*6:訳書p.209.

*7:訳書p.229.